石屋神社について

石屋神社
石屋神社の写真

石屋神社は佐東郡四位石屋明神がもとで、平安時代(9世紀頃)には、すでに鎮座していたと推察されている。祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后と宗像三女神である。

この石屋神社は、熊野新宮大社から分祀したもので、地元では通称「新宮さん」と呼ばれ親しまれている。統治の権現山が熊野権現の頂点として、石屋神社が熊野新宮に見立てられ、その道の案内が西明寺、豊用寺、神宮寺、東明寺、三京寺などの小祀が存在して、熊野の例のごとく考えられている。

厳島神との関係であるが、祭神にも宗像三女神の名が記載され、御神紋として幟旗に「八幡神」の「三ッ巴紋」とともに厳島神の「三ッ盛亀甲紋」が見られる。

また、天文十年(1541年) 銀山城が落城し、武田氏滅亡後、大内義隆は毛利元就へ、緑井四〇〇貫を預け、毛利氏が緑井を所領としてからは、しばしば厳島神社の常灯料や造営料などの名目で、神領を寄進している。今、「能舞田」(のうまいでん)「神楽田」(かぐらでん)などの小字で確認できる。

このように、毛利氏が緑井の一部を厳島神社に寄進することで、緑井村の村社としての役割情で、厳島神社と石屋神社との関連性が強まっていったと想像できる。

※上記は、「宇那木神社」玉木武彦宮司による由緒・沿革の内容である。

石屋神社の位置についてはこちらを参照ください。

岩谷神楽とは

岩谷神楽は、広島市域の代表歴な神楽である「安芸十二神祇神楽」の伝統を受け継ぐものである。

岩谷地域において、明治12年、その頃から舞われたと思われる。
広島県北部(奥の舞)の神楽と比べて神話の影響が少なく、江戸時代以前の形をよく残している神楽といわれている。
「安芸十二神祇神楽」を残す地域もわずかとなり、明治・大正・昭和の時代には、緑井の各地域で奉納されていた神楽も、現在では岩谷地域に残るだけとなった。
今日において岩谷神楽は、年寄りから若い世代へ、大人から子どもへと伝えられ、その結びつきを深める地域の大切な民俗文化財としての役割を担っている。舞手は子どもを中心としている。

秋祭りはかつて旧暦の9月の9・19・29日(三九日)に行われたが、現在は10月の終わりの土・日曜の氏神である石屋神社秋季大祭の前夜祭(よごろ)において行っている。
現在は、「岩谷神楽保存会」が神楽の保存・継承に努めている。

十二神祇神楽(安芸十二神祇)とは

安芸南部(広島市、廿日市市、大竹市など瀬戸内沿岸部)で舞われている神楽であり、秋祭りの奉納のため、地元の人々で行うのが主である。
江戸時代終わりから明治にかけて、どこから伝えられたかは不明だが、この地域で広まった。阿刀神楽の将軍の舞や関の舞(荒平舞(あらひらまい))に代表される舞である。

広島県の神楽研究者によると十二神祇神楽は極めて速いテンポの楽奏で忙しく舞うのが特徴であるとされ、本来の神楽の目的や形式の古さをよく留めているとも言われる。
しかし、岩谷神楽の場合は早いテンポに変わる舞はあり、その名残はあるものの、時代とともに簡略化されていき、基本の流れは汲みつつも、岩谷独特の舞へと変化をしていったと思われる。

前述したが、安芸十二神祇のハイライトは「関の舞」(荒平舞)であり、代表する舞である。
十二神祇神楽で有名なものとして、阿刀神楽(戸山)、水内神楽(湯来)、石内神楽(五日市)、西原神楽(祇園)、諸木神楽(高陽町)などがあげられる。

「関」とは

「関」(荒平(あらひら))とは「芝鬼神」「柴鬼神」「鬼神」と言われ、芸予諸島や四国では、「ダイバ」(大魔、大婆、大蛮など)とも呼ばれている。さらには、鹿児島、宮崎(シバコウジン)にも残る。

関の面
関の面の写真

鬼には2つのタイプがあるとされる。
1つ目は、退治される鬼(石見神楽の鬼)の「人倫」などである。
2つ目は、人に福を授け、宝物を持つ鬼であり、「関」(荒平)である。
いわば中世の鬼であり、室町時代のお伽草子である「一寸法師」や「桃太郎」に出てくる鬼がイメージできるであろう。

関の舞詞は歌から始まる。
太夫(法理、山伏)に向けて、自分が恐ろしい姿をしていること、世界をさまよい、日本にたどり着いたなど… 自分の姿を語り、次に鬼の宝(死繁昌の杖)のいわれを語る。
しかし問答の末、関(荒平)は平伏し、宝である『死繁昌の杖』を太夫に渡し、太夫から刀を授かる。
この舞詞も江戸時代に書き換えられ、さらに明治の廃仏毀釈により変わっていったとされる。
岩谷の「関」も、その時代の影響と舞手の思いや舞い方によって、少なからず変化していったと思われる。
このような歴史から、「関」は我々に『福』を授けにきた鬼であることは違いない。

「関」は超越した『悪』と『善』の神である。
鬼には隠れているという意味があり、鬼の語源は「穏(おん)」であり、それが「鬼(おに)」となったといわれる。

また、「鬼棒」は「杖(つえ)」(ザイ)であり、来訪神である「関」が遠く(異国)から来るためにも「杖」がいるということである。

関の大羽織

この「関の舞」に代表される神楽は「魂の入れ替え」の舞であり、超越した「鬼」が払ってくれるのである。
古(いにしえ)より死は恐ろしいもの、魂がけがれて死が訪れると考えられた。
だから、清らかなものと入れ替えるためには、超越した「鬼」が必要であった。

本来この舞は、収穫の喜びや豊穣の舞ではなく、悪を退治し、善をもたらし、新しい生命を得る。つまり、生まれ清まるという意味があったと思われる。

「関(荒平)の舞」は中世、戦国末期には中国地方一円にあった。
豊臣秀吉の時代から、舞詞が残っているとされる。
しかし、安芸地方への浄土真宗の広がりとともに、儀式の簡略化が進み、関や舞詞が変化していったようである。
その時代、浄土真宗と神楽との関係性がどのようであったかは、はっきりとはわからない。